吸血鬼ミル0〜目覚め〜


「あっ……」
眩しい。額に、腕で影を作る。
「……」
明るい、広い草原の中。一本の大きな木の下。
何故、こんなところに……。
「……そっか」
追い出されたんだ。街から。
この黒い翼のせいで。




それは、数年前。
西欧のとある街。
吸血鬼の伝説がそこにはあった。
私もその話は聞いたことがあって、幼い頃には震えて眠れなかったこともある。
だが、当時私は12歳。伝説は、所詮伝説であると思うようになっていた。
それは、サンタクロースの正体を、誰もがいずれは知るようになるのと、同じ。
そう、思っていた。


ある日――それは、確か10/31、ハロウィンの日。
毎年のように友達と近所の家を巡っていた。
ある程度楽しんで、お菓子を沢山もらって、友達と別れて一人で家に帰る途中だった。
「ふう、今年も大漁大漁!!」
家に帰ったら何から食べようかな〜、とか考えていたそのとき。
「もし、お嬢さん」
若い、男の人か女の人か分からないけど、綺麗な声が聞こえた。
「はい?」
条件反射で振り向く。
そこにいたのは、黒いコートを纏った、若い男の人と女の人がいた。
二人とも、綺麗な顔をしていて、しかしながら少し色白で、ちょっと近付くのを躊躇ってしまう様な雰囲気をしている。
男の人が、口を開く。
「お嬢さん、この街の子?」
さっき聞いた声だった。
「あ、はい、そうですけど……」
「なら、吸血鬼の話、知ってるわね」
女の人が口を開いた。男の人よりも少し声が高く、どこか吸い込まれそうな声だった。
「小さい頃に、聞かされましたが……」
「そう……、少し、聞かせてくれない?」
少し怖かったが、断る理由もないし、断れそうな雰囲気でもなかったので、昔聞いたその話を聞かせた。
吸血鬼の生まれから生態、弱点、出没する時間、等等。
話し終えると女の人がにっこりと笑って、「ありがとう」といった。
……男の人がいない。
女の人が続ける。
「何に対してありがとう、なのか勘違いしてるみたいだから言うけど……」
女の人がコートを広げる。
背中に、黒く、大きな二対の翼。
それが何を意味するのか。
「ひっ!!」
直感的に、危機が迫っていることを幼心に知る。
女の人は、かまわず続ける。
「ありがとう。……血を、分け与えてくれて、ね」
とっさに逃げようとするが、後ろから誰かに羽交い絞めにされる。
「逃げようと思っても、無駄だ」
さっきの男の人の声だ。
「や、やだぁ!!」
だが、女の人はどんどん近付いてくる。
「ふふ、若い女の子の血は、おいしいって評判よ」
女の人に顔を両手でつかまれ、固定される。
首筋に、左右から牙を立てられる。
その牙が首に食い込み、血を吸われているのがなんとなく分かる。
「やだっ!!誰か!!誰か、助けてっ!!!」
暴れるが、当然ながら離してくれない。
だんだん力が抜けてきて、叫ぶ気力どころか、意識を保つ気力もなくなる。
何人かの人の声が聞こえた気がするが、意識は朦朧としていて、仕舞いには、何がどうなったかなんて、覚えていなかった。


目が覚めると、見慣れた部屋の、ベットの上に横たわっていた。
自分の部屋だ。
隣には何人かの人がいた。その中には、ハロウィンの夜を一緒に楽しんだ友達、そしてお母さんもいた。
でも、みんなで集まって、何かあったのかな。
「ん……」
ゆっくりと起きる。瞬間。
お母さんが泣きながら抱きついてきた。
「よかった……、生きてて、良かった……」
「お、お母さん、苦しいよ……」
でも、離してくれない。
なにやら、友達や集まっていた人皆が騒いでいた。歓喜の声を上げて。
未だ状況を飲み込めず、たまたまカレンダーに目を向けると、11月のカレンダー。
最初の一週間程に、×印がついている。
「あの、お母さん、あの×は、何?」
カレンダーを指差しながら。
お母さんは悲しそうな、でも安心したような表情で答える。
「あんたが、眠りっぱなしだった日だよ。
 今日は、付けずに済みそうで、良かった……」
ということは、私は一週間近く眠っていたということか。
でも、何が原因で……。と考えるまでもなく。
あのときであった男女を思い出す。
「あの人達は?!」
「え?あの人達、って?」
「黒いコートの、男の人と女の人!!」
あぁ、とお母さんが頷き、驚くべきことを口にする。
「あんたを介抱した後、去って言ったよ。
 歩いて旅をしていて、大怪我していたあんたをたまたま見つけてくれて……。
 本当に、運が良かった……」
え?と疑う。
違う、私が倒れたのは彼らが原因なのに。
「なんか怖そうだったけど、とても優しかったよねー」
「うん」
という友達の会話が聞こえた。
あれ?
私の記憶違い?
「で、どうしてあんなところで怪我を?」
返答に困る。あの人達が原因でないのなら他の人か。あるいは、野犬か。
首に牙の跡のような傷があるから、野犬の可能性が高いかな。
「とにかく」とお母さん。
「来年からは保護者同伴だね」
「はぁ〜い」


それから4年後の10/31。
この街ではハロウィンで楽しめるのは16歳までと決まっている(子供のいないお年寄りとか子供が好きな人達は別として)。
だから、それが私にとって最後のハロウィンになるはずだった。
だが、その日は高熱を出してしまい、おとなしく眠っていた。
「何で、よりにも寄ってこんな日に……」
本当に、ついていない……。
仕方なく、眠りに就く。


「う、あうっ」
苦しくて、目が覚める。
「あ、はぁ、あ、熱い……」
体中が熱くて、着ていたパジャマがベトベトだ。
しかも、こんな日に限ってお母さんもお父さんも忙しい。
まぁ、この日が忙しいのは数日前から分かっていたから、寧ろ私が迷惑をかけていることだろう。
それにしても。
「なんで、こんなに、熱いのぉ……」
息が荒く、熱い。
身体も、熱い。熱くて、痛い。
まるで、身体の中から何かが生えてくるような、感覚。
「うぅ、あ、や、やあぁっ!」
背中が、割れる。
「は、いや、う、うあぁぁぁ!!」
どくん、と、ベットの上で身体が跳ねる。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
何か、急に力が抜けて、ぐったりと倒れた。
「何……、今の……」
額の汗を腕で拭う。
その腕を、見る。汗がべっとりと付いていて、何か黒い物も。
「……?」
ベットの端にも、あった。それを手に取る。
濡れた、黒い羽根。
「カラス?それとも……」
4年前を思い出す。
いや、あれは私の勘違いだったはずだ。
吸血鬼なんて、いるわけが無い。吸血鬼なんて……。
「……!」
パジャマの、背中の辺りがやや膨らんでいるような違和感。
「まさか……」
パジャマを脱ぐ。
鏡を見ると、白い肌。そして……。
「う、そ……」
黒く美しい翼。背中から生えているように見える。
背中に、手を伸ばす。
「……ひぁっ!!」
柔らかい羽毛の感触。生まれたての、羽毛。少しだけ、ベトベトしている。
「……夢、かな」
痛みも感じるし、随分リアルな夢だ。
私は再びパジャマを着て、ベットに潜り込んだ。


また、目が覚めた。
濡れたパジャマや下着が気持ち悪い。
そして。
「なんで……、どうしてっ!!」
背中に、汗で汚れた翼。
「こんなの、私じゃない!!」
背中の翼を握り締め、思い切り引っ張る。
「っ痛……!」
わけがわからない。何で、私がこんな目に遭うの!
「どうして、どうして、どうして……!」
泣いて、泣いて、泣きじゃくった。
こんなに泣いても、何も変わらないのに……。
そのうち、気がつくと、私の部屋の入り口にお母さんが立っていた。ハンドバッグを床に落とした、お母さんが。
「ミル……なの?」
お母さんが蒼白な顔で聞いてきた。
「そうだよ、私、ミル、だよ。
 ……そうだよね、私、ミルだよね!」
お母さんを、そして自分を落ち着かせるために叫んだ。だが、逆に不安が募る。
違ったら、どうしよう。もし私が、ミル以外の何かだったら、どうすればいいのだろう。
そして、お母さん。
「本当に、ミル?じゃあ、その翼は?」
お母さんの様子が少しおかしい。違う、違うよ!お願いだから、疑わないで!!
「……あんた、吸血鬼ね。私の娘を何処にやったの?」
お母さんの娘は、目の前にいるじゃない……!
「やだな、お母さん。そんな変な冗談……」
「煩い!あの子をどこにやったの?!答えなさい!!
 ……まさか、あんたが喰ったんじゃないでしょうね……!」
「お母さん!私、本当に、ミルだよ!信じてよ!お願い!!」
「誰が吸血鬼なんか……!
 あの子は、まだ世界のほんの一部しか知らない、これから色んなことを知っていくはずだったのに!
 あんたが!!お前が、ミルを!!!」
なんで、そんなこというの、お母さん……。
もしかして、私、人間のミルとは違うの?この姿、声、動き、記憶、これらは全て、作り物なの?!
なんで?人間だったミルは、こんな罰を受けるほど悪い人間ではないと思っていたのに!
いつの間にか家の中に、何人もの人が入ってきていた。
逃げなきゃ。本能ではそう思った。でも、身体が動かない。
そして、囲まれる。お母さん、近所のおじさんとおばさん、友達、この街に住む知らない人々。
「吸血鬼は、こんな街にいてはいけないだろ?しかも、人を喰っただと?」
「ミルちゃんの格好なんかするな!この悪魔!!」
「吸血鬼は出て行け、或いは、死ね」
「そうだ、出て行け!」
「殺せ!」
「追い出せ!」
「いなくなっちゃえ!!」
そしてリンチされる。
顔、肩、腕、胸、腹、背、腰、腿、脛。ありとあらゆる所を殴られ蹴られ、傷付けられる。
「逃げるなら、逃がしてやる。せめてもの救いだ。それが嫌なら、死ね」
いわれ、一旦攻撃が止む。その一瞬だけ、身体が軽くなった。
その勢いで、私は逃げた。
逃げている最中も、石を投げ付けられたりした。片腕と、片足がひどく痛む。
走っては逃げない。違う。走って逃げられない。元々体力が無い上に、熱もまだあるし、暴力も振るわれた。走れるほど、強くない。
泣きながら、痛めた腕を押さえ、片足を引き摺りながら歩いた。


「服、汚れた、まんまだなぁ……」
勿論血で汚れているし、それ以前に汗でベトベトだ。
「これから、どうすれば、いいんだろう……」
呟きながら歩いていたら、気が付かないうちに教会の前に立っていた。
「……吸血鬼なんて、こんなところ、居られないよね……」
痛む足を引き摺り、その場を後にし、近くの公園に行こうと思った。その時。
「何を泣いているのですか」
「えっ?」
声のした方を振り向く。
立っていたのは若そうなシスター。
「そんなボロボロの格好で泣いていては、その綺麗な肌が台無しですよ。お入りなさい」
その言葉は何故か抗い難いものがあり、シスターに連れられて教会に入ってしまった。


シスターに、全身を洗って治療を施してもらった。
優しいな、そう思った。……でも。
「……どういうつもりなんですか」
おかしい。教会に吸血鬼を連れ込むなんて、絶対に裏があるに違いない。
だが、シスターは惚けたように言う。
「困っている人が居れば助ける。それが教会ですから」
「そんなの、嘘だよ!
 教会が吸血鬼を匿うなんて、どうかしてるじゃない!絶対におかしいじゃない!!」
「そうですか?主イエスは全てのものに愛を、と仰っていたのですが」
「それは人間に限っての話でしょ!私は吸血鬼!
 どうせ宗教裁判みたいなものに懸けて火炙りにでもするつもりなんでしょう!!!」
涙が、頬から零れる。止め処無く、溢れる。
でも。
あんなに罵倒したのに。
そんな私を、シスターは。
優しく、強く、抱きしめてくれた。
「あっ……」
「主はかつて、人を裁いてはいけないと仰いました。吸血鬼は、人とほぼ同格の存在。
 それに、吸血鬼であること自身が罪であるわけではありません。
 あなたみたいな吸血鬼よりも他の多くの人間のほうが、多くの罪を犯しているのですから。
 とにかく、今あなたに必要なのは、休息です。
 今日はもう遅いので、おやすみなさい。明日また、お話しましょうね」
にこっと笑ってくれた。つられて、ぎこちないが、笑顔がわずかに浮かぶ。


外が明るい。私は泣き疲れて寝てしまったようだ。
翼は……やっぱりある。
「私、やっぱり何か悪い事したの……?」
辛い。とても辛い。何より、吸血鬼(今の私)が教会にいるこの事実、それが、辛い。
「目が覚めましたか?」
「あっ……」
シスターが部屋に入ってくる。
「よろしければ朝ごはんの準備、手伝っていただけませんか?」
「あ、はい……」
何故だろう。逆らおうと思えば逆らえるような、そんなお願いなのに。
何故か、拒絶出来なかった。


朝食も終わり、後片付けは自主的に手伝った。こうするのが正しいと思ったから。
そうして少し落ち着いたところで、シスターが話を切り出す。
「……覚えていますか、4年前のハロウィンの夜を」
「えっ?」
忘れるはずが無い。だって、野犬に襲われて酷い目に……あれ?
「野犬なんかではありません。紛れも無く、吸血鬼です」
「……」
「吸血鬼なんて、見た目では翼さえうまく隠せば人間と変わりありませんから。
 だから、逃げられてしまったんですけどね」
聞くとあの時、吸血鬼がこの街に入ってきたことを、シスターの1人がそれとなく感知したらしい。
しかも、その吸血鬼が誰かを襲うということも予測できていた、とのこと。
「あなたは、たまたまそこにいてしまっただけ。その時に噛みつかれてしまい、感染してしまったんです」
「感染?」
「はい。
 吸血鬼に噛み付かれた者は吸血鬼化してしまうんです。
 ただ、それがその瞬間発症するか、この世からいなくなるまで発症しないか。個人差はありますけど。
 何故か必ず、閏年だとか関係なく、吸血鬼化するのは吸血鬼に噛み付かれた日と同じ日なんだそうです」
「……私はそれが偶々ハロウィンだった、ってことですか……」
「はい……あ、いいえ、あなたの場合、正確には違います」
「違う?何がですか?」
「ハロウィン、というのは特別な日、だというのはご存知ですね?」
「はい……」
それはそうだ。特別じゃなければわざわざ特別なこともしないし、特別な呼び方もしないだろう。
「実は、ハロウィンというのは亜人……いわゆる吸血鬼や魔女などの力が増す、といわれています。
 そして、ハロウィンに亜人化……あなたの場合は吸血鬼化ですが、してしまうと、本来ではありえない力を持つ事になるんです。
 それが意味すること、というのは……」
「私は、強力な力を持つ吸血鬼、という事ですか」
それくらいなら分かる。今更疑う理由も無い。
ただ、シスターは首を横に振った。
「いえ、それだけなら問題は無いのですが……。
 ……あなたは、来年、再来年、その後も毎年、ハロウィンが訪れる度に、吸血衝動、或いは殺人衝動に襲われます」
「キュウケツショウドウ?」
「えぇ、普段は何とも無いのですが、その日だけは、人の血を吸うか、人を殺さなければ立つ事すらままならなくなります」
「……そんな!」
人の血を吸う、だって?私と同じような吸血鬼を産み出すだけじゃないか。
それに、人を殺す……?
「……私、そんなことしてまで生きていく自信がありません……」
吸血くらいなら耐えられるかもしれない。でも、人を殺してまで、生きていたいとは思わない。
「そこまでして、生きていく意味が、分かりません……」
「なら、死にたい、とは思っているのですか?」
「死にたくは無い……でも、人を殺してまで生きるよりはましだと思います……」
「そうでしょうか?」
シスターが苦笑する。
「では、人を殺さず、人を傷付けず生きていけるとしたら?」
「え?」
それは、勿論生きていたい。
「対処法が全く無いわけでもありません」
しばし考える。そして、10秒ほどでやっと理解。
「え?!その方法は?!」
シスターは落ち着いた声でその方法を語る。
「その方法は三つ。しかし、教会に昔から伝わる"噂"が多く含まれますが……」
「噂?」
「ええ。だから間違っている可能性はありますが……まぁ良いでしょう。お聞かせします。
 一つ目は、ハロウィンの日だけ薬等で意識を無くすこと。
 二つ目は、あなたを吸血鬼化した吸血鬼を探し、その血を飲むこと。
 そしてもう一つは、吸血鬼誕生の地といわれるところへ行き、自らの血を捧げること。
 一つ目は確かに有効ですが、そこまで強力なものはそのうち耐性もついてしまい、1,2回なら大丈夫ですが、それ以上はお勧めしません。
 二つ目は、一つ目よりかなり難度は高いですが、同時にかなり有効かと思われます。ただ、これも噂の域を出ないものでして……。
 そして、三つ目は吸血鬼化すら治す……と言われていますが、そんな噂のある街なんて殆どありませんし、この国にあるとは限りません」
言っていることは分かった。でも。
「なんか、難しそう……。
 それに、薬っていうのも少し怖いし……」
「ですよね。
 しかし、どうするかはあなたが決めることです。
 ……あっ、もう一つ、ありました」
「えっ?」
唐突だった。だが、少しだけ、期待する。
「これは、難しいかどうかはあなた次第ですが。
 自分が吸血鬼だといってその翼を見せても信用してくれる街、或いは仲間を見つけなさい。
 きっと、解決に役立ってくれると思いますよ」
「信……用?私を……?」
「ええ。
 きっと何処かにあなたを信じ、真実を知った上で受け入れてくれ、理解してくれる人たちがいるはずです。
 そういう人たちを、探しなさい」
確かに、難しいかどうかは分からない。
でも、孤独な今は、それも良いかもしれない。
「決意が固まったようですね。
 お金や着替えや、そのほかに必要なものはこちらで用意しますから、今日一日休んで、明日の早朝、誰もいないうちに出発しなさい」


翌日、朝5:30。
自然と目が覚めた。
シスターが用意してくれた着替え――ハーフパンツに白いシャツ、そして白いロングのコート。
翼は意外にも柔らかく、手で押さえながらシャツを着れば、シャツの中に収まってしまった。
「おはようございます」
シスターは既に起きていて、お金等必要なものを用意しておいてくれた。
「朝食を終えたら、途中まで見送らせていただきます。その方が、安心ですよね?」
「あ、はい、ありがとうございます」
朝食は、茸の入ったオムレツ、コンソメスープ、黒麦パン、そして食後のコーヒー。
恐らくこの街で最後の食事となるであろう。急ぎつつも味わいながら、完食した。


そろそろ行くかという時に、あれば便利だからと地図、洗面用具、生理用品、そしてパスポートまで用意してくれていた。
同じく用意してくれた小さめの鞄に、着替えやそれらを詰め、外に出た。
少し薄暗く、頬を冷たい風が流れていく。それが、非常に心地良い。
体中の傷は、完治とまでは行かないものの相当マシなものとなっていた。
「じゃあ、行きますね」
「はい。
 ミルさんなら、挫けず頑張れると信じています」
「そ、そうですか?」
そう言われると嬉しい。
「なんか、天使みたいです……えっと」
シスターの名前、聞いてなかったや。
「あ、私のことでしょうか……。
 私は、ルカ、です」
「ルカさん、ですね。
 本当に、天使みたいで、優しいです……」
「天使ですか……。そうですね、私もそういってもらえると嬉しいです」
ルカさんが、はにかみつつ微笑む。その笑みが、心を癒す。
「では、行ってきます。
 ……また、会えるといいですね」
「はい。それは勿論です。
 行ってらっしゃい。貴女に神のご加護を……」
そのまま、一度だけ振り返り、また前を向き、その後は一切振り向かず、長くなるであろう旅の第一歩を踏み出した。



「天使……か」
教会の前に1人取り残されたシスター・ルカ。
吸血鬼ミルのその背中を、見えなくなるまで見送り、教会へと戻る。
「……きっと、彼女なら、挫けない……。
 私も、見習わなくては……」
数人の他のシスターが駆け寄ってきた。そのうち1人が、ルカに話しかける。
「ルカ様、お戻りで。
 あの子は、どうでしょうか」
「……大丈夫だ。彼女は、強い……」
(そう、きっと。この私よりも)
「ルカ様は、どうするんですか?」
別の1人に問われる。
「どうするかな。
 彼女を見習って、私も、旅に出るかな……。
 いつまでも、堕天使如きがシスターの真似事だなんて、神への冒涜であろうし……」
シスター・ルカ。その正体は、堕天使であった。
本来神の使いであったはずの天使。神に対する裏切りによって、二度と天界に帰って来れなくなった天使。
そんな自分が、神の使いであるシスターの真似事を……と考えていたが。
「そうでしょうか?
 あの子を説得するその姿、シスターそのものでしたよ」
「いやだな、やめてくれ」
苦笑。
「でも、あの子の中では私はシスターだった。
 ならば、私には恐らく、あの子を守る義務があるのだろう。
 ……やはり、行かなければならない」
「あなたがそうお考えなら、そうすべきだと思います。
 我が主は慈悲深いお方。貴女の罪、きっとお救いになられるでしょう。
 貴女だって、あの子と同じく元は人間。それでなくても、善行の積み重ねはその罪を消し去るでしょう。
 貴女に、神のご加護を授けましょう」
「ありがとう。では、もう行くとしよう。
 貴女達にも神のご加護を……」
ルカは、ミルがそうしたように、一度だけ振り返り、そして再び前を向き、教会を後にした。
ミルの言葉が頭に浮かぶ。
(なんか、天使みたいです……)
「まぁ、ある意味間違いではないが。
 なかなか嬉しいことを言ってくれる娘だ……」
(……また、会えるといいですね)
「……そうだな。また、遠くない未来、きっと会おう……」
ローブを脱ぎ、そろそろ冬であるにも関わらず、露出の多い服を晒す。
背中に、僅かな膨らみ。白く、それでいて黒い、灰色の翼。
「あまり、綺麗な翼ではないが……」
ミルの黒い翼を思い出しつつ、呟く。
「だが、飛んで見せよう、この翼で。だから、その時はまた会おう……」




「……?」
誰かに呼ばれた気がする……っと。
「振り返らない振り返らない!」
自らに注意し、歩む。
これから先、どんな事が起きるか予想は出来ない。
だが、それでも頑張ろうと思う。
この街で遣り残した事、そうでないものも。
きっと、私には出来る。出来なくちゃいけない。
「挫けるものか!」
そう。たとえこんな身体だって。
「希望は、あるんだから」


数日後。
広い草原に出た。遠くに街が見えるから、今すぐにでも行ってみたい。が。
「……陽射、強いなぁ」
木陰へ移動。これで、少しは楽になる。
木に凭れると、少し、気持ちがいい。
「……すぅ……」
気が付いたら、眠っていた。




どれくらい眠っていたのだろうか。
もう、日陰の位置は変わっている。
ふと、上を見上げると。
「あっ……」
眩しい。額に、腕で影を作る。
「……」
明るい、広い草原の中。一本の大きな木の下。
何故、こんなところに……。
「……そっか」
追い出されたんだ。街から。
この黒い翼のせいで。
「……でも」
そう、まだ。
「希望は、あるよね……」
だから、私は再び歩み始める。
私の、全てを受け入れてくれる居場所を探して……。